打ち手辞典

『給与への不信』を“信頼”に変える“透明性”オンボーディング

「『給与明細を見たが、基本給の計算が合わない』と、入社一ヶ月の新人から内線が…。調べたら彼の勘違いだったが、会社を全く信用していないんだなと、寂しくなった。」

手塩にかけて採用し、仲間として迎え入れたはずの相手から、まるで不正を疑うかのように、お金の話を切り出される。その瞬間の、寂しさと、悲しさ。信頼関係を築けていなかったのかと、これまでの自分の努力まで否定されたような気持ちになる。

この問題の本質は、新人があなたや会社を「信用していない」のではなく、そもそも社会人として初めて手にする「給与明細」という複雑な暗号を、どう解読すれば良いか「知らない」だけという、極めてシンプルな情報格差にあります。

この辞典は、その「知らない」ことから生まれる、ごく自然な不安を、「不信」と断罪するのではなく、先回りした情報開示と丁寧な教育によって「信頼」へと転換するための、新しい時代のオンボーディング術をご提案します。


ステップ0:まず、なぜあなたの会社は”信用”されていないのか?を診断しよう

新人が、給与明細を手に、不安や疑念を抱いてしまう背景には、いくつかの構造的な情報提供の不足があります。

  • □ 給与情報・ブラックボックス型:
    内定通知書や給与明細に数字は書いてあるが、その数字がどのような計算(総支給額、控除額、手取り額の内訳など)で成り立っているのか、丁寧な説明がない。
  • □ 期待値コントロール・失敗型:
    選考過程で、年収や月収の「総支給額」ばかりを強調し、そこから税金や社会保険料が引かれた「手取り額」が、想像よりずっと少なくなるという現実を伝えていない。
  • □ 「お金の話は卑しい」文化型:
    社内に、給与やお金の話をオープンにすることを、どこかためらうような古い文化が根付いている。
  • □ 入社後・関係性リセット型:
    あれほど親身だった採用担当者が、入社後は遠い存在になり、新人が「誰に、こんな初歩的なことを聞けば良いのか」分からず、一人で不安を抱え込んでいる。
  • □ 社会人経験・皆無型:
    新人自身が、所得税や住民税、社会保険料といった「控除」の仕組みを全く知らず、単純に「基本給=口座に振り込まれる額」だと誤解している。

これらは全て、「言わなくても分かるだろう」という、企業側の思い込みと、「知らない」という新人の現実との間の、深刻なギャップが原因です。


ステップ1:思想をアップデートする。「信用して当然」という驕りを捨てる

「給与」は、社員と会社を繋ぐ、最も基本的で、最も重要な契約です。その契約内容について、新人が自分の目で確認し、納得しようとする姿勢は、むしろ歓迎すべきです。

【新しい採用のスタンス】

信頼は、与えられるものではなく、勝ち取るものである

特に、お金に関する信頼は、一度の曖昧な説明ではなく、継続的で、徹底的な透明性によってのみ勝ち取ることができます。採用担当者の役割は、お金に関する不安や疑問を、いつでも安心して口に出せる文化と仕組みを、先回りして作っておくことです。


ステップ2:“寂しさ”を”最高の信頼構築の機会”に変える具体的な打ち手

思想のアップデートが完了したら、いよいよ具体的な戦術です。「不信の電話」を「感謝の言葉」に変える4つの打ち手をご紹介します。

1. 「給与明細の読み方」説明会

難易度 コスト 期間 次回の新人研修から
目的
新入社員のお金に関するリテラシーを底上げし、共通基盤を築く
具体策
・新人研修に「給与明細・福利厚生説明会」を必ず設ける
・人事・労務担当者がサンプル明細を使い「総支給」「控除」「差引支給額」を丁寧に解説
主要KPI
・給与に関する問い合わせ件数の低下
・オンボーディング満足度
・「公正性・透明性」スコア

2. オファー面談時の「手取りシミュレーション」

難易度 コスト 期間 次回のオファー面談から
目的
入社前の期待値ギャップをなくし、生活設計をサポート
具体策
・月給額の提示に加え、税金や社会保険料控除後の「手取り額」をシミュレーションして伝える
主要KPI
・入社後のリアリティショック防止
・内定承諾率の向上
・誠実さ・配慮のPR

3. 「お金の相談窓口」の設置

難易度 コスト 期間 即時
目的
誰に聞けばよいか分からない不安を解消する受け皿を作る
具体策
・人事部内に「給与・労務なんでも相談窓口」を設置
・新人研修で担当者を紹介し、「些細なことでも相談して」と伝える
・問い合わせには誠実に対応する
主要KPI
・心理的安全性の向上
・問題の早期発見と解決
・人事への信頼感の醸成

4. 問い合わせへの「神対応」

難易度 コスト 期間 即時
目的
ピンチをチャンスに変え、強い会社ファンに育てる
具体策
・問い合わせにまず感謝と謝罪を伝える
・勘違いと分かった後は、「来年の資料改善に協力して」と巻き込み、仲間化する
主要KPI
・社員のエンゲージメント・ロイヤリティ向上
・オンボーディング改善への活用
・採用担当者自身の成長

成功のための深掘り解説

打ち手1:「給与明細の読み方」説明会の実施

これは、新人が抱えるお金の不安を、一網打尽にする最も効率的な方法です。「こんな初歩的なことを聞いて、馬鹿だと思われないだろうか」という、個人の不安を、全員で学ぶ「共通のカリキュラム」へと昇華させます。この説明会があるだけで、無用な誤解や疑念の大半は未然に防ぐことができます。これは、採用担当者や現場の管理職が、個別の質問に追われる時間を削減することにも繋がります。

打ち手2:オファー面談時の「手取りシミュレーション」の提示

多くの学生は、「総支給額」と「手取り額」の違いを明確に理解していません。入社後、想像していたよりも手取りが少ないことに、静かなショックと不信感を抱きます。その「最初の失望」を、内定の段階で先回りして防ぐこと。これは、学生の生活設計に寄り添う、極めて誠実で、配慮に満ちたコミュニケーションであり、企業の信頼性を大きく高めます。

打ち手3:「お金の相談窓口」を人事内に設置する

新人は、誰に、何を聞いて良いか分かりません。特に、お金というデリケートな問題については尚更です。「ここに行けば、どんな質問でも受け止めてもらえる」という公式な“駆け込み寺”を用意しておくこと。それだけで、新人は一人で悩みを抱え込むことなく、健全な形で疑問を解消できます。これは、組織の風通しの良さを示す、象徴的な存在となります。

打ち手4:問い合わせてきた新人への「神対応」

これが、採用担当者の真価が問われる瞬間です。寂しいと感じた、その気持ちをぐっとこらえ、相手の「勇気ある行動」を称賛する。そして、彼の疑問を「会社の改善点」として捉え、解決のパートナーとして巻き込む。この対応をされた新人は、「自分の小さな疑問が、この会社を良くした」という強烈な成功体験と当事者意識を持ち、誰よりも熱心な、会社のファンになる可能性があります。

明日からできることリスト

  • ・給与明細の見本(サンプル)のコピーを用意し、「総支給額」「控除項目」「手取り」がどう計算されるかを説明できる資料を簡単に作成する。
  • ・オファー面談時に「手取りシミュレーション」を含めて説明する文言を用意し、次回から必ず使うようにする。
  • ・入社説明会か新人研修の冒頭に「給与・控除・福利厚生に関する説明会」を設定するプランを提案する。
  • ・社内に「給与・労務なんでも相談窓口」を設置できる担当者を決め、窓口の存在を入社前案内などで言及する。
  • ・給与や控除についての誤解や疑念の問い合わせがあった際、問い合わせ者にまず感謝+誤解ならその理由を説明+「こういう資料があればいいかどうか教えてください」と巻き込む対応をする。

「疑われない関係」ではなく、「いつでも正直に疑問をぶつけられる関係」

採用担当者は、学生から無条件に信頼されることを、期待すべきではありません。

むしろ、学生が抱いたどんな些細な疑問や不安も、ためらうことなく、安心して口に出せるような、風通しの良い信頼関係を、入社後も 根気強く築き続けること。それが、あなたの本当の役割です。

新人の電話は、あなたへの不信の表明ではありません。

それは、「あなたの会社の一員として、ちゃんと理解したいんです」という、仲間になりたいと願う彼からの、不器用で、しかし誠実なサインなのです。

そのサインを、寂しさではなく、喜びと誇りをもって受け止められること。

その姿勢こそが、採用担当者という仕事の奥深さであり、最高のやりがいと言えるでしょう。